自社の資産の価値の捉え直しと、地道なニーズ探求から生まれた新規事業

閉鎖寸前のサイトから見いだされた、新規事業につながる資産と理解者の登場
金融面から国内の農林水産業の発展に寄与する農林中央金庫(以下、農林中金)は、全国のJA(農業協同組合)の会員などから預かった資金を国内外で運用し、得た収益を全国のJAグループなどの運営資金として還元するとともに、農林水産業者や関連する企業などへ貸出を行う金融機関です。
そうした農林中金の業務の中には、農林水産業に対する貢献の一環として、農や食に関する情報提供やリサーチ機能があり、今回新規事業の舞台となった情報発信サイト「アグリウェブ」もその1つです。農林中金が主体となって2016年より開始している同サイトは、2019年にリニューアルを経て、会員数20,000名超に至りつつも、会員獲得後の展開を言見いだせず、社内では閉鎖も叫ばれるようになっていました。ユーザーの欲する情報を提供するマーケティングの観点が、伝統的な日本の企業である農林中央金庫では他に例がなく、先々の可能性について理解を得ることが難しかったのです。これを根本から捉え直し、一部有料のサービスを含むプラットフォームとしてリリースすることになりました。
もともとあったアグリウェブを見直す背景には、維持にかかる工数のアンバランスがありました。そんな折に閉鎖の可能性も念頭に、上司からサイトの現状把握を指示されアグリウェブに関わることになったのは、IT統括部 ニュー・ビジネス班 部長代理の長堀俊允(としのぶ)氏です。長堀氏は当時をこう振り返ります。

▲農林中央金庫 IT統括部 ニュー・ビジネス班 部長代理 長堀俊允氏
「2021年8月、当時竹谷(同班の竹谷悠佑氏)が、担当業務の一方1人で運営していたアグリウェブに合流しました。それまで竹谷が一からつくり上げてきましたが、それ以上手が回らず存続の危機に瀕している状態でした」(長堀氏)
竹谷氏も当時のアグリウェブについて、率直にこう語ります。
「当時別の担当業務もありましたし、依頼してもアグリウェブのスタッフは増強されない状況で、限界を感じていました。また思うような方向性で展開できず、存在意義も見失いかけていました。ただ、当時のアグリウェブには2万人の登録ユーザーがおり、もしサイトを閉鎖するのであれば、一定の期間を周知期間に費やして、丁寧に説明する必要があると考えていました。長堀が加わったのはその頃でした」(竹谷氏)
ところが、竹谷氏から詳しい状況を聞いた長堀氏は、「存続の危機どころか大きな可能性がある」とアグリウェブに潜んでいる価値を見抜き、当時の心境を明かします。
「アグリウェブには、時間をかけて蓄積したアーカイブがあり、農業者に役立つ情報もたくさんありました。何より、問い合わせフォームに切実な課題を訴える声が届き始めており、社会課題に対応し得る潜在能力を感じました。それを見て『この資産を生かさない手はない』と思いました。また、アーカイブの利用だけではなく、今後も持続的に価値ある発信の場にするためには、応分のコストを利用者に求める有料モデルに転じる必要があると考えました」(長堀氏)
ただ、モデル転換(事業化)には社内から大きな反発があったといいます。「誰が見るんだよ、そんなサイト」。当時、社内では一方通行の情報発信の手段と捉えられており、ユーザーの興味関心を捉えて新たな顧客を開拓する「マーケティング」や、マーケティングの先に広がる可能性への理解が社内で醸成されていなかったことが原因だったと、長堀氏は述懐します。
存続の危機やモデル転換に対する反発がある中、長堀氏と竹谷氏は事業となり得る可能性を、ある役員に包み隠さず打ち明けます。その役員は、ひとしきり2人の話を聞き、30秒ほどの沈黙の後に「面白い」と言って興味を示してくれたといいます。
この役員の理解によって、アグリウェブを活用した新規事業化に、リソースを割いて進める検討が開始され、また新規事業へ理解を示すもう一名の役員にも引き合わせてくれました。組織としては経験のない領域であり、順風満帆とはいきませんでしたが、プロジェクトは一歩ずつ、しかし着実に前進し始めます。
こうして、閉鎖寸前だったサイトの価値の捉え直しによって転がり始めた新規事業開発ですが、その概要はどういったものだったのでしょうか。竹谷氏はこう説明します。

▲農林中央金庫 IT統括部 ニュー・ビジネス班 竹谷悠佑氏
「新たにリサーチの観点から農業の課題とポテンシャルを捉え直し、アグリウェブを『社会課題解決型のマッチングプラットフォーム事業』にリニューアルすることになりました。私はそれまで営業企画部という部署でリサーチ業務に携わる中で、農薬や肥料、農作物の物流などといった農業に関する情報はもとより、水産業や乳業など農業以外の実態にも広く接していました。また融資や出資といった金融機関の営業の現場でも経験を積むことができました。
アグリウェブを通じて出会った方々との対話に加え、そうした多様な業界に触れた経験から、農業には、地域や社会の課題を解決する『ビジネス』としてのポテンシャルがあると確信しました。こうした農業のビジネスとしての課題やポテンシャル、そして地域や社会が農業に抱く期待や可能性を、領域に関係なくマッチングする仕組みがあれば、社会が抱える多くの課題の解決につながり、結果として農業という産業の発展に寄与できるのではと考えました」(竹谷氏)
社会には無数のニーズ(課題や悩み、目標)が存在しますが、農業者を支援したい農業関係人口にも「農業者と接点を持ちたい」というニーズがあり、それまで一方通行の情報提供サイトだったアグリウェブは、農業を軸に多様なニーズが業界を問わず出合うプラットフォーム事業へシフトしていくことになりました。長堀氏と竹谷氏は、これを「ビジネス共創型マルチサイドプラットフォーム」と表現し、後々まで後ろ盾となる先の両役員も、こうした理想に対する共感があったといえそうです。
イグニション・ポイントのビジョンとシンクロし、事業案は一気に具体化。確かなニーズ把握と社会的意義で勝ち取った事業化承認
ただ、新規事業の立ち上げには初めての課題も多く、企業のカルチャーを踏まえ、一つひとつ丁寧に石橋を叩きながら仮説検証を進める必要がありました。そこで、サービスのリリースに向けて、多様な業界の新規事業開発に携わってきたイグニション・ポイントに支援を依頼することとなりました。
今回のプロジェクト支援にあたり、最初に長堀氏と面会した際を振り返り、イグニション・ポイントのコンサルティング事業本部 ストラテジーユニット ディレクターを務める髙橋悠は、「当初はまだ抽象的な内容でしたが、概要を聞いた時点で『これは新規事業であり、社会的インパクトが非常に大きい。さらに、弊社ビジョンである『ゆたかさを生みだすあらゆる革新のプラットフォームになる』にも通じるものがある』と直感しました」と語ります。
また、その場には、当時組織の人事ローテーションの波にさらわれて他部署へ異動となっていた竹谷氏は同席していませんでしたが、長堀氏の言葉の端々から両者の新規事業に対する思いと両氏の連帯感が感じられ、髙橋は「本気度が伝染した」と表現します。

▲イグニション・ポイントコンサルティング事業本部 ストラテジーユニット
ディレクター 髙橋悠
「プロジェクトが立ち上がるまでのストーリーや社会的意義に触れ、イグニション・ポイントが大切にする『構想で終わらせず、ビジョンを形にする実行力』で貢献できると確信した瞬間でした」(髙橋)
今回のプロジェクトに対するイグニション・ポイントの支援は、「フェーズ1」(2023年4-6月)と「フェーズ2」(2023年7-9月)、「フェーズ3」(2023年11-12月)に分けられます。フェーズ1では、長堀氏と竹谷氏が顧客に対して行った聞き取りから抽出したニーズをベースにした事業展開案について、髙橋をはじめとしたイグニション・ポイントのメンバーがアセスメントを行った上で、「競合サービスとの比較」「独自性」「勝ち筋構築」などを行いました。フェーズ2では、「機能の具体化」「ペーパーツールでのプロトタイプ構築・検証」を行い、フェーズ3は、途中で理事長の事業化了承を挟んで、「要件定義」を進め、リリースに向けて具体的な内容を詰めていきました。
フェーズ1の大きな山場となったのは、想定顧客から真のニーズを聞き取ることでした。アグリウェブがニーズとシーズがマッチングするプラットフォームに生まれ変わるには、そこに参加するさまざまな属性の方々から、真のニーズを先入観なく聞き取る必要がありました。そのために、あらかじめ質問を用意して臨むヒアリングではなく、考えや思いを傾聴するインタビューの手法を用いることになりました。
ヒアリングで聞き取りをする際に用意する質問事項は、こちらが望む答えの裏返しであり、場合によっては誘導尋問になりかねません。これでは、こちらが利用してもらいたいと考えている商品やサービスに落とし込む「プロダクトアウト」の思考から脱することはできません。また、面識のある人物に対するインタビューは相互の利害関係を踏まえた回答になる可能性があるため、慎重に行う必要があります。特に、踏み込んだ質問をしたい場合には、第三者的な外部の視点を活用する意義があることを、髙橋からアドバイスを受けたと竹谷氏は明かします。
フェーズ1では、そうした地道な活動からすくいとった確かなニーズをもとに、当初4案あったビジネスモデルから、現状のマッチングプラットフォーム型に絞りました。そして、想定顧客は有料のサービスでも利用するのか、テストマーケティングも行って調査しました。
調査結果から判明したのは、有料でも利用してくれる顧客が存在し、新規事業として成立する可能性があること、JAやJAバンクを利用していない平均年齢50歳内外の農業者が一定数おり、現状の農林中金は、その層と接触できるタッチポイントを持っていないことなども分かりました。
こうした検証結果を踏まえた事業展開案を用意し、イグニション・ポイントの支援がフェーズ3に差しかかった2023年11月7日、農林中金の役員会において事業展開案の説明を行い、正式な事業化の了承を得るに至りました。
ここまでの進捗について髙橋は、「従来のアグリウェブでできなかったことは何か、自分たちがどこに向けてサービスを提供しようとしているのか、そこにどういう社会的意義があるのかなどについて、我々の支援と並行して長堀さんと竹谷さんが考え抜き、それを貫き通したからこそ到達できたのだと思います」と分析します。どんな優れたビジネスモデルでも、顧客の真のニーズやペインに裏付けられた強いWHY(事業を行う意義)がなければ実現は難しい。髙橋は、さまざまな新規事業開発の現場を見てきたからこそ、今回のプロジェクトの強さを感じたといいます。

事業展開のシミュレーションやシナリオ策定。具体化していく事業計画
経営幹部からのゴーサインが得られた後は、詳細な売り上げのシミュレーションなど、より実現性の高い事業計画にするためのプロセスに移っていきました。ここで髙橋をはじめ事業戦略に関わるイグニション・ポイントのメンバーは、複数のシナリオを提示して長堀氏、竹谷氏とのディスカッションに時間を割く日々が続きました。シナリオの中には、初期は無料モデルで展開し、後に有料サービスに移行するものなどがあり、そのシナリオを採用した場合、どのような展開が予想されるのかなどについて議論を重ねていきました。
事業計画が固まり、理事長の了承も得て事業化が正式に決定した2023年11月にはフェーズ3にて、具体的な画面デザインや裏側で動くシステムの要件定義を詰め、開発を進める段階になりました。ここからはイグニション・ポイントのエクスペリエンスデザインユニットのメンバーも加わって、ユーザー導線やUI/UXを意識したインターフェース検討なども並行して行っていくことになりました。
この時期の進め方について、長堀氏はこう印象を語ります。

「通常の開発プロセスでは、当初固めた要件定義に沿って進めるため、途中途中での変更は難しいものですが、要件定義の段階でビジネスとデザインの相互を行き来するアジャイルな検討により、ユーザー目線を意識したものに近づけられたと感じます」(長堀氏)
そうして微調整を繰り返し、新生アグリウェブのサービスは、2024年7月末にリリースを迎えました。現在も随時ユーザー導線の見直しなど、細かなアップデートが続いており、今後はAIを組み込むなど、さらに利用しやすいものにしていく予定だと竹谷氏は展望を語ります。
今回農林中金は、中核事業にはない新しい事業に挑んだわけですが、長堀氏はふとプロジェクト初期にイグニション・ポイントが作成した資料を読み返し、パートナーとしてイグニション・ポイントを選んだ価値を改めて実感したといいます。
長堀氏が注目したのは、イグニション・ポイントのまとめた資料に盛り込まれていた「サードパーティー」という言葉です。
「資料には、『事業が成長するに従って、やがてサードパーティーが集まってくるようになる』と記載されていました。当時は十分に理解できていませんでしたが、社会課題解決型のプラットフォームとして生まれ変わったアグリウェブの認知が広がっていけば、そこに関与することで自社の成長が見込めるAIベンチャーやIT企業などが集まり、農林水産業を中心としたエコシステムが形成されていくことになると、イグニション・ポイントは初期から予測していたのです」(長堀氏)
また資料には、そうしたサードパーティーとのアライアンスによって、当初は想定していなかった新たな価値が生まれ、ベンチャー企業への投資や、さらなる成長のためのアグリウェブ事業に対する資金調達の可能性にも言及してあり、先々までの可能性を見通した深い洞察力を、イグニション・ポイントに感じたと評価します。
また長堀氏は、そうした髙橋をはじめとしたプロフェッショナルが常に伴走してくれていることに、心理的な面でも助けられたと振り返ります。新規事業開発の過程では、いくらしっかりとポリシーを持って取り組んでいても、時としてくじけそうになる瞬間もあります。そんな折、「社会的意義の大きい事業ですし、事業の解像度を上げる中で、勝ち筋は見えてきていますから、1つずつ論点を解消していきましょう」と、イグニション・ポイントが伴走者として声をかけ続けてくれたと言います。「どれだけ励まされ救われたか分かりません」と、長堀氏は感謝を口にします。
もちろん肯定的な言葉をかけるだけでなく、「私たちはときに行動力に任せて軌道を逸脱しかけるような局面もありました。そんな時、髙橋さんをはじめとしたイグニション・ポイントのみなさんが、『顧客の意識から離れ始めているから修正しましょう』などと、率直に指摘してくれた。当事者では得られにくい第三者の視点は貴重でした」と、竹谷氏も別の角度からイグニション・ポイントの適切な関与を評価します。
こうして深いインサイトの提供だけでなく、イグニション・ポイントが常に伴走し、言葉をかけ続けてくれたことについて、「自分事として関わる本気度の高さ」を感じた、と長堀氏は総括します。
ようやく迎えたローンチ。カーブアウトが議論されるように農林中金に芽生え始めた新規事業への意識
現在、長堀氏と竹谷氏が立ち上げたこの事業は、カーブアウトも議論されるまでに至っています。一般に金融機関では、一定期間ごとの役職のローテーションが通例であり、新規事業開発に取り組むには難易度が高い業界と見ることもできます。ただ、今回長堀氏と竹谷氏は、2023年11月の役員会において「取組専担者」と認定され、事業に専念できる立場になりました。農林中金では、この事業に端を発し、次に続く新規事業開発制度に関わる議論が開始されるなど、徐々に意識に変化が生まれつつあります。
これまでの支援を踏まえ、髙橋は展望を語ります。
「来年からは、企業として事業をスケールさせる新たなフェーズに入ります。これからも戦略参謀、お2人の右腕として、事業拡大に向けた営業・マーケティング戦略、事業PDCAを踏まえたサービスの磨き込み、アライアンスパートナー戦略および実行など、イグニション・ポイントのケイパビリティを生かした長いおつき合いができればと考えています」(髙橋)
また同時に、今回のような熱い思いが「起動の時」を待っている企業に対してこう呼びかけます。
「企業には、それぞれ伝統やカルチャーがあります。その中で、新規事業としての立ち上げが容易ではないケースもありますが、動き出しから社会実装を見据えた効果的な戦略、事業化したのちのスケールまで、社会に対するインパクトを最大化できるノウハウを、私たちイグニション・ポイントは持っています。抽象度の高いふわっとした状況でも構いませんのでご相談ください」(髙橋)

(記載内容は2024年12月時点のものです)